ねえ、二人で塔に登ろうよ。ぼくのお父さんは、静かに死を待つ身なんだ。本人が気取りをこめて言っていたよ。おれは病魔にむしばまれ、もはや、余命いくばくもない。あとはただ、静かに死を待つ身なのだ、とね。
 まったく、本を読みすぎた報いだよ。死の直前まで凝った言い回しをするんだから。ぼくなら絶対、死ぬときに複雑な言葉なんて発しない。ギャーッ! グエーッ! そんな断末魔とともに、死んでみたいものだ。それは、コロコロコミックの死にかただ。あるいは、ボカーン! 爆発音とともに死ぬのだ。特撮番組の怪人は、みな、爆発によって死んでいった。幼少期の記憶にのこる怪人たちの死にざまが、今も理想の一形態として存在しているよ。
 さあ、行こう。手を取りあって、二人で家出をするんだ。下着と毛布をかばんに入れて、夜は路上で眠るのだ。きっと、薄汚れた衣服を誇りに思う子どもになるだろう。さようなら、ぼくの家よ、病床の父よ!

オペ彦

 深夜二時、コアラとラッコのしりとり接続を見つけて歓喜する。無限に続けられるのだ。コアラ、ラッコ、コアラ、ラッコ、コアラ、ラッコ、コアラ、ラッコ……。終りのないしりとりに、よろこぶ私は日本人。
 しかし、これは拷問にも使えるという。二人の人間を密室に閉じこめて、片方の人間にコアラと言わせ、もう片方にはラッコと言わせ、それを永遠に続けさせると、二人ともすぐに黒目が定位置を離脱して、頭がおかしくなってしまうそうなのだ。
「コアラ役とラッコ役、どちらが先に発狂するんだろう?」
 ひとりの小学生が、夏休みの自由研究として、これを実行した。名前をオペ彦といった。オペ彦は両親にねだり、一組の人間を購入してもらったのである。
「コアラ役のほうが先に発狂しました。時刻は八月二日午前四時二十五分。実験開始より、四十時間が経過した時のことでした。しかし、相手を失ったラッコ役は、それでも惰性に引きずられ、ひとりでラッコとつぶやき続けていました。ラッコ、ラッコ、ラッコ、ラッコ、ラッコ…‥。これじゃあ、しりとりになっていない! 僕は不満である!」
 ああ、大富豪の元に生まれ落ちた肥満体の子どもよ。他者へのあわれみを知らず、自分以外のすべては実験動物なのだ。

タピオカの前世

 日曜の午後三時、プラスチックカップの底に沈むタピオカを見つめていた。ルミネのカフェの丸テーブル。すでに三度目の来店だった。タピオカの流行と距離を置こうとして、私は結局、挫折した。冷めた目でやりすごすには、タピオカはもちもちしすぎていた。

 透明なストローの内側に、タピオカが詰まって並んでいる。ストローの中で列を作り、吸い込まれることを待っている。宇宙から見れば、人類もタピオカも似たような粒。しかし今の私は人間としての形状を持ち、タピオカはタピオカとしての存在を生きている。タピオカもまた前世では人としての自我を持ち、人としての苦しみを生きた時代があったのだろう。あらゆるタピオカの前世は人間なのだ。


 僕も来世は、透明なタピオカに生まれたい。


 だが、そうしてタピオカへの転生を願うおまえは、トイレを汚した罰として、消臭剤に生まれ変わることになる。消臭剤の一粒一粒が、前世でトイレを汚した人間なのだ。ある者は尿を放置した。ある者は壁の貼り紙を無視した。いまや彼等は透明な粒となり、小さなプラスチックケースの中に収容されている。
 トイレの悪臭を吸い込み、少しずつ萎びてゆくだけの生涯は悲しい。しかし人類の大半は、消臭剤としての来世を送ることになるだろう。タピオカに生まれ変わるには、本当に心を透明にして人生を終えなければならない。釈迦は今頃タピオカとなり、ミルクティーという安寧の底に、深く沈んでいることだろう。

 人類が徐々にエゴをなくし、完全な球体となった時、ストローを通過するタピオカのように、透明なチューブの中を移動するようになる。タピオカは予言の書だ。現代の予言は書物の形を取ることがなく、街の流行の中にその身を隠している。タピオカブームは人類進化の序章にすぎない。未来の歴史家は語るだろう。あの年、突発的に起きたタピオカの狂騒こそが、巨大な潮流の始まりだったのだ、と。

 あんたたちはタピオカが飲みたいんじゃない。
 タピオカになりたいんだ。

 人生に妥協をするな。


 真夏の時を生きる屈強な男たちは、日焼けした肌に白い歯を見せて笑い、農作業に精を出していた。朝日とともに小屋を出て、日が落ちるまで畑を耕す日々。それが彼等のすべてであった。今では真夏の空の下、トウモロコシの一粒一粒に生まれ変わっている。

ゴリラの定食屋

 私は商店街を歩いていた。アーケードの終わる場所に小さな定食屋を発見した。看板に「こだわり定食」と書かれていた。その具体性のなさに興味をひかれた。コロッケなのか? ハンバーグなのか? エビフライなのか? こだわり定食とだけ言われても、まったく内容が分からないだろうが。入店決定。
 店員はゴリラだった。茶色の硬そうな毛に、ピンク色のエプロンを付けていた。私の入店を確認すると、ゴリラは激しく自分の胸を叩きはじめた。私は顔をしかめた。ゴリラがあまりにゴリラらしいパフォーマンスをしたからだ。しかし、ゴリラは私の気分を害したことに気付かないようだった。ドラミングを終えると、胸の毛を太い指先で何度か撫でて、
「いらっしゃいませ」
 と言った。
「日本語を使用してもよろしいでしょうか? 確認が後になってしまい、まことに申し訳ないのですが」
「どちらでもいい」と私は言った。
「助かります。ゴリラのウホウホを期待して来店されるお客様もおられますので」

 私は店内を見渡した。人類は客の少数で、大半は動物のようだった。カンガルーやパンダ、それにゾウガメもいた。隅の座席にはバッタさえいた。バッタはそうめんのつゆに脚を入れたまま停止していた。めんつゆの隣には、ざるそばが置かれていた。出てきたままの状態のようだ。
「虫がいるな」と私は言った。
「お静かに」とゴリラは言った。「お席に御案内致します」
 バッタはめんつゆに節足を浸して停止していた。麺に取り組む気配はないようだった。
「ああいう虫が来ると、回転率が悪くなって困るだろう?」
「昆虫のお客様には、昆虫のお客様のリズムがあります」とゴリラは言った。「ヒトのリズムと比べれば、すこし遅く見えるかもしれませんが」
 ゴリラのくせに、もっともらしいことを言いやがる。私はゴリラの桃色のエプロンのポケットに差された一本のボールペンに視線を向けた。激しくツボに入ってしまった。何を書くことがあるんだ、ゴリラ風情が! 類人猿のくせして、偉そうに文字を書きやがる!

 座席に付いた。壁に貼り紙があった。さまざまなメニューが貼られている。その中に一枚、奇妙な貼り紙があった。
《ポール・スミスから色彩を奪え!》
「あれは誰が書いたんだ。あんたか」
 そうたずねると、ゴリラは照れくさそうに頭をかいた。
「ええ、むしゃくしゃした日にね、書き殴ってしまいました。どうにも気分がすぐれない時、ちょうど伊勢丹でポール・スミスの店の前を通りかかりまして、たくさんの色鮮やかなシャツにむしょうに腹が立ったという、それだけの理由なのですけどね。ゴリラの世界には、不合理な怒りを命令形にして書きなぐる文化があるのです。俗にゴリラ詩と呼ばれるものですね。だから一応、あれは私の作品ということになります。怒りを昇華して反省の心をあらわした時、ゴリラという種族は美を感じるのです」
 結局は、ゴリラの考えることだ。内容が支離滅裂だ。本当に反省しているならば、店の壁に貼るのは矛盾しているだろうが。
「これをくれ」
 私は、メニューのエビフライ定食を指差した。
「こだわり定食でなくてよろしいですか。非常におすすめなのですが」
 私は自分が店に入った理由を忘れていた。
「こだわり定食以外は、まったくこだわらずに作っているので、ものすごく不味いのですけど」
 これだから、ゴリラとの会話にはイライラさせられる。こだわり定食以外だろうが、それなりにこだわって作るのが料理人の筋だろうが。
 しかし、私は口に出さなかった。「いい」とだけ言った。
「エビフライ定食をくれ」
 ゴリラはエプロンのポケットからボールペンを抜くと、伝票にさらさらと何かを書いて去っていった。どうせ「エビ」とでも書いたのだろう。

 窓際の席だから、店内の全体が見渡せた。人間の客は他の動物や昆虫となじんでいるように見えた。スーツ姿の人間がいた。その隣にむきだしのゾウガメが座っていて、衣服という概念が揺らいだ。私は自分の衣類を確かめた。ちゃんと布を身に付けている。私は人間だ。
 それからエビフライ定食のことを考えた。どれだけ不味いのだろう? あるいは不味いと言っても最低限の味は保証されているのだろうか? タルタルソースがあればそれでよいと思った。タルタルソースさえあれば、粗悪なエビだろうが味覚はごまかされる。
 ふたたび多種多様な客を眺めた。小さな緑色に視線を向けた。バッタはあいかわらず、めんつゆの容器にとまって脚を浸していた。触角がゆれていた。何を考えていやがるんだ、と私は思った。ざるそばを食べる気はあるのか?
 バッタの隣の席では、パンダが笹を食べていた。机にはすでに食べ終えた皿が置かれていた。残骸からして何かの肉だったのだろう。パンダは食後の笹をむしゃむしゃとやっていた。店のメニューにはない。自前なのだろう。所詮、動物のやることだ。マナーがなっていない。こういう店では普通、持ち込み禁止だろう。
 パンダの隣にはスーツを着たビジネスマンらしき人間が座っていて、スマートフォンの画面に釘付けになっていた。指先をすばやく動かし、次々と画面をスクロールさせている。画面を見たまま水を取ろうとして、指先が当たり、グラスが倒れそうになって慌てていた。他にも諸々の動物がいた。繁盛している。すでに一時過ぎでこの客入りは、なかなかのものだろう。

 エビフライ定食が運ばれてきた。運んできたのはゴリラではなく、若い人間の女だった。私は同志を見つけた気分になった。彼女を手招きすると、ひそひそと耳打ちした。
「ゴリラの下で働くのは大変だろう? それに客も動物だらけだ。バッタまで我がもの顔でめんつゆに取り組んでいやがる」
 それから視線でポール・スミスの貼り紙を示唆した。
「ああいった訳の分からない思想にも、かぶれているしね」
 女は明確に愛想笑いだと判断できる表情を見せた後、エビフライ定食を置いて去っていった。分かり合えない。

 食に取り組むことにした。エビフライの横には、タルタルソースが絵の具のようになすりつけられていた。がさつだ。エビフライの味は中の下といったところだった。ひととおり食べたところでトイレに立った。用を足して席に戻ると、皿に残ったレタスの山にバッタがとまっていた。私は絶句した。めんつゆのほうに視線を向けた。姿が消えていた。あのバッタが、このバッタなのか。
 私は小声で言った。
「おい、俺のエビフライ定食だぞ」
 バッタは無反応のまま、レタスの山のすみを削るように食べていた。私は紙ナプキンごしにバッタの腹をつまんだ。不愉快な柔らかさ。
 そのまま床に放った。バッタはとくに抵抗しなかった。しばらく床でじっとして触角を揺らしていた。私はおしぼりでしつこく指先を拭いた。さすがに残りのレタスに口を付ける気にはなれなかった。

 スマートフォンを取り出して店の評価を調べた。一年前の投稿が一件あるだけだった。「店の床をゴキブリが走り回っていた。二度と行かない」と書かれていた。アイコンからすると投稿者はフナムシのようだった。ふざけてやがる。自分だって似たような外見をしているくせに、何を言っているのか? しかし似たような外見をしているからこそ、憎悪もふくらむのかもしれない。私は人類の血みどろの歴史を思い、バッタの緑色を思った。
 腹はふくれた。
 平皿にはレタスの山が残っていた。すでにバッタは自分の席に戻り、ふたたびめんつゆの容器のふちにとまって、脚を浸していた。注文の選択を間違えたのだろう。定食ならばレタスが付くことを知らずに、やみくもに注文したのがざるそばだったのだ。バッタの知能では仕方ないことだ。
 私はふくらんだ胃袋に手を当てたまま厨房に目を向けた。店員の女がゴリラに耳打ちしていた。ゴリラは優しそうに微笑み、女の背中に巨大な手をやると、なぐさめるように何かを言っていた。

 私は伝票を持って立ち上がった。伝票には「フライ」とだけ書かれていた。そっちを取って簡略化するのか? やはり、ゴリラとは分かり合えない。
 会計を済ませた。
 帰ろうとすると、ゴリラに手招きされた。
「お客様にこうしたことを申し上げるのは、非常に心苦しいのですが」
 と前置きして、ゴリラは言った。
「あなたは、動物や昆虫たちのことを馬鹿にしているでしょう? そういったことは、口ぶりや表情で、意外と伝わっているものですよ」
 ゴリラは顔を近付けた。
「可奈子ちゃんが怯えていました」
 店員の女の名前なんだろう。
「とくに、バッタのお客様に対する言動は目に余るものでした。不適切な言葉を口にされました」
「あの後、あいつは俺の定食のレタスを食べたんだがな。おまえに責任はないのか?」
「なぜ、自分の定食は自分だけの定食だと思っているのですか」
「こりゃまた支離滅裂だな。自分の定食は自分の定食に決まっているだろうが。しかしまあ、よかったんじゃないか? これで紙に書き殴るネタができただろう。おまえらの文化なんだろう? ゴリラ詩とかいうのがさ。俺への不満を書き殴って店の壁に貼れば、ゴリラ芸術一丁あがりというわけだ。まったく、簡単でいいよな」
 一瞬、ゴリラの筋肉に強い緊張が走ったようだった。
 しかし、表面上は穏やかな態度を崩さなかった。
「人類の天下は終わったんです。そろそろ受け入れるべきですよ」
 ゴリラは店の扉を閉めた。

 私は商店街を歩いた。駅前のベンチに座ると、スマートフォンを取り出して、ゴリラの定食屋のレビューを書いた。
《初の来店。店主はポール・スミスに対する危険思想の持ち主。こだわり定食以外はこだわらずに作っていることを悪びれずに暴露された。店員の女はゴリラに色目を使っていた。客のパンダは自前の笹を持ち込んでいた。私はエビフライ定食を注文した。エビは粗悪。タルタルソースがなければ完食は不可能だった。その上、バッタにレタスを食べられた。ところで伝票の件は吹き出した。伝票に「フライ」と書かれていたのだ。メニューにはカキフライ定食やアジフライ定食もあった。エビフライ定食を「フライ」と簡略化すれば、確実に混乱が生じるだろう。人類ならば誰でも分かることだ。結局はゴリラのやっている店なんだな、と実感した。結論としてはおすすめしない。私は二度と行かない。》
 満足して送信した。すぐに画面に反映された。私のレビューの上に人類のアイコンが表示された。スマートフォンをカバンに入れると、駅に向かって歩き出した。
 その後、何年もの間、ゴリラの店のレビュー欄には人類とフナムシのアイコンが並んでいた。インターネットは、人類とフナムシしか使っていないのだった。

my 屁 , your 屁

 ぐう、と腹が鳴った。これは僕の胃袋か?
 ここは僕の部屋である。当然、これは僕の腹の音だ。考えるまでもない。しかし最近、腹の音が自分のものなのか、判断の付かないことが増えてきた。人体からは日常的にさまざまな音がする。胃袋の音。呼吸音。骨のきしみ。屁。それらをいちいち、自分の肉体から出た音なのか、他人の肉体から出た音なのか、判断するのはめんどくさいよ。どっちだっていいじゃないか、そんなもん。
 しかし脳というのは、意外と馬鹿馬鹿しい機能を備えている。具体的には屁の区別である。これを脳は勝手に判断している。他人の屁のにおいは不快だが、自分の屁のにおいはそれほど不快ではない。むしろ少しの安心感がある。まったく、冗談のような機能じゃないか。しかし、よくできている。あっぱれ、と言いたくなる。非常に便利な機能である。人体のバージョンアップで、屁における自他の区別が実装された時は、ユーザーも大喝采だったことだろう。

 たまにヒトは屁で揉める。おまえがしただろ。おれじゃねえ。鼻をつまんで大激論。屁の帰属先のなすりつけあい。そこで登場するのが屁の所有格。簡単な英語の復習だ。my 屁、your 屁、his 屁、her 屁。さらにオマケ的に復習すれば、our 屁、their 屁。
 集団で屁をするな、馬鹿。
 my 屁と your 屁は日常で使える。屁における激論はこの二つで足りる。your 屁 is so くさい。しかし our 屁が言葉として成立するためには、二メートル四方のプラスチック・ケースに屁をためる若者グループの登場を待たねばならないだろう。若者たちはケースを取り囲み誇らしげに言う。これが、おれたちの屁。おれたちの屁のすべてが、このプラスチック・ケースの中にある。池袋の夜、ラーメン屋の後の屁。渋谷午前五時、終わらないドンチャン騒ぎの合間合間の屁。our 屁 is とても precious。
 若者たちはケースに屁をする際、自転車のタイヤに空気を入れる時の要領で、サッと栓を抜き急いで屁をして即閉じる。おれたちの屁が漏れないように。ガラが悪いようでいて、意外と繊細なのだ。しかし大人たちは理解を示さず、街に置かれたプラスチック・ケースを指差して言う。their 屁 is とても迷惑。

 先日、私はイヤホンをして街を歩いていた。デパートのエレベーターに乗りこんだ。見知らぬ中年男性が同乗していた。エレベーターは上昇を始めた。しばらくして屁のにおいがした。しかしイヤホンのせいだろう。それが自分の屁なのか、同乗した中年の屁なのか判断が付かなかった。
 外界の聴覚を遮断すると屁の自覚は薄れるものだ。自分の肛門付近に空気の微妙な動きはあったか? 普段の私は平均より屁を自覚する人間である。しかし今回は音楽に意識が向いていた。その結果、脳が迷っていた。あの時の感覚! 屁のにおいが安心と不快の間で宙ぶらりんになった、あの時のこと!
 俺はこのにおいを不快だと思えばいいのか? それとも少しの落ち着きを感じればいいのか? 明らかに脳は迷っていた。そして私は、脳から解離した透明な意識の場所で、脳の仕事のバカバカしさを笑っていた。くだらんことで悩むな!
「屁の帰属先不明。快不快の結論を下すことができません」
 これが脳のコメントアウト。まったく、生真面目に働くもんだよ。
 屁はくさい、で終わりでいいじゃないか。
 しかし私は、屁にこだわる。肛門にこだわる。糞便にこだわる。徹底的に思考する。そして、うんこで笑うことの向こう側へ突き抜ける。
 見ろ、いまやうんこは、何ひとつ面白くない。

 昔、自由意志に関する本を読んだ。喫茶店での読書だった。本の内容はいまいちピンとこないものだった。人間の自由意志の有無が問題になっていたが、それは自分にとって切実な問いではなかった。翻訳物だった。キリスト教的世界観が前提となっているんだろうか? 西欧人の書いた本がピンとこない時、私はすぐその結論に飛びつこうとする。
 本を閉じて店を出た。帰り道で便意があった。うんこを我慢しながら家路を急いだ。この肛門の力はなんとなく「意志」という感じがすると思った。意志の根源は肛門の制御か? とすると、意志とは筋肉の緊張か? 筋肉の収縮には意志が絡むが、筋肉の弛緩に意志は絡まない。それゆえ、意志によってリラックスすることは難しい? 人間に自由意志はなく、限定された否定の意志だけがある?
 呼吸は意志ではないが、呼吸を止めることは意志である。そして呼吸を長く止めることはできない。その意味で、意志は限定されたものだ。運動を続ける肉体に対し、一時的に介入すること。それが意志の力か? あるいは日常的に言われる「意志」は、長期的な人生計画と関わっている? しかし私にはもう、肉体の刹那的な収縮と弛緩が日々のすべてだ。

上田啓太

連絡先:pelicanmatch@gmail.com

Twitter:@ueda_keita|別ブログ:真顔日記