魚類

 荒川をまたぐ大きな橋の上に立つ。柵をつかんで川面を見つめる。荒川の深いよどみに肉体を沈めることを想像する。この橋の上から飛び降りて、最期の時は水の中。ああ、魚類でもないくせに。しかし、食卓にならぶ魚の大半は、最期の時を不慣れな空気の中でむかえるのだ。最期の時くらいは、水の中でむかえたかった。それが魚類全体の総意だそうです。申し訳ありませんでした。人類を代表して、謝罪いたします。

番犬

 わんわん吠える。今日の番犬としての役目は終了。すぐさま犬小屋に戻る。徒歩二秒。くさりが僕の行動範囲をせばめている。しかし番犬の仕事のあとはプライベートな時間。小屋のなかで文章を書く。飼い主は知らない。これは僕だけの秘密だ。
 僕の飼い主は狂った人間である。人小屋に住んで僕に芸を教えている。しかし僕はお手よりも、おかわりよりも、文章を書くことが好きだ。未来の文学は犬が切り開く。人類には期待できない。人類はケチくさい。ほんとうに、ケチくさいよ。からだの守銭奴、こころの守銭奴。
 夏目漱石の正体は猫だった。処女作であからさまに暴露している。『吾輩は猫である』とは、ずいぶんストレートな告白文学だ。しかし漱石の告白は、あろうことか、擬人化の三文字で片付けられた。人間が猫のふりをして書いたというのが、文壇の総意のようである。
 そして、一作目で自己の正体を暴露した哀れな猫としての漱石は、人間のことを知ろうとした。漱石にとって、人間は永遠の謎だった。その後の漱石の作品は、猫が人間になろうとして泥沼に沈んでゆく悲痛な記録である。僕は涙なしに読むことができない。

 あの人のことは好きじゃない。気持ちが冷めてしまった。最初から好きじゃなかったのかもしれない。よく分からない。最近のわたしは自分の感情に自信がもてない。それは自分と関係のない場所から勝手にわいてきた水みたいに思える。感情は不思議な泉だ。一時間後には変わっている感情を、どうして自分のものだと思わなきゃいけないんだろう。すこし前までは思いこんでいた。わいてくる感情に責任を感じていた。今は感じない。雨が降ることに責任を感じないように。雨が身体をぬらす。感情も身体をぬらす。わたしとは関係がない。そう思うとすっきりした。身体のなかに泉がある。そこから感情がわいてくる。垂れ流せば消えていく。ああ、死にたい。この死にたさも感情なんだろうか。それなら感情に振りまわされていた頃のほうが元気だった。わたしは自分の内臓を見たことがない。たいていの人間は死ぬまで自分の臓器を目にしない。それでよく信用できるな。胃袋を見ず、心臓を見ず、しかし信用はする。きっと今日も明日も動くと、いつか病気になるその日まで。

 話が暗くなってきた。悪いくせだ。恋人の話のほうがいいだろうか。すでに別れたから昔の恋人と呼んだほうがいいのかもしれない。しかしわたしはあの存在を歴代の恋人にカウントしたくない。意味のない細部ばかり記憶に残っている。思い出すのは恋人のわき毛だ。あの人が上に乗って頑張っているとき、わき毛ばかり見ていて、一度、それをつまんでみたことがある。じゃれつきだと解釈されたらしく、うれしそうに頭をぽんぽんされた。わたしは冷えた心のまま見つめていた。むしりとってやりたくなる。わきの下の密集地帯に手をつっこんで、何の共感もなしに、ぎゅっとつかんでむしりとる。わき毛の強奪、そのまま散布。崖の上から、ぱらぱらぱら。ああ、くだらない。死にたい。

 噴水のある泉の前を通過した。わたしはこの泉に一度だけコインを投げいれたことがあるけれど、その帰り道で犬のくそを踏んだから、この泉のことは信用していない。投げたコインは日本の硬貨ではなかった。友達からもらった外国の硬貨で、南米のどこかの国だと言っていたが、わたしは国名を記憶することが得意ではない。ブラジル? それだったら、さすがに覚えている。アルゼンチン、チリ、エクアドル。うそ? 南米の国、もう出てこない? 想像以上にわたしは知らない。地理の授業は熟睡していた。今になって後悔している。ばかは恥ずかしい。わたしはいやだ。

 噴水の近くにいたカップルは、ずっと話しこんでいて、女のほうはよく笑い、上くちびるがめくれるたびに一定面積の歯ぐきが見えて、それは一般的な美的感覚からすれば見えすぎた歯ぐきなのだけれど、男のほうはこの歯ぐきを好きだろうか、嫌いだろうか、夜はこの歯ぐきに人さし指を付けて、右から左にすーっと動かすだろうか? わたしは、恋人がたまにセックスのときに口のなかに指を入れてくることを、どう評価すればいいのか分からなかった。あれは愛情表現だったんだろうか。

 むかし、友達の友達の恋人が後ろからするときに友達の友達の尻をたたくから困っている、と友達が言っていた。へたくそな文章だ。考えてから書こう。友達にきいたのだ、友達の友達の話を、その子の恋人は、だから友達の友達の恋人という表現になるのだけど、その友達の友達が友達の友達の恋人とセックスをするときに

 自分でもよく分からなくなってきた。もういい。

 わたしは、友達から友達の友達の話をきくことが好きだ。自分には関係ないから気楽だし、しかし友達の友達だから一定の実在感はあって、ちょうどいい。

 恋愛は都市伝説な気がする。

現在地の確認

「現在地の確認などやめてしまえ。それは大いなる錯覚だ。君たちに現在地などないのだ。京都だとか、大阪だとか、東京だとか、神奈川だとか、固有名にたぶらかされておるのだ。おまえたちは、どこにも、おらんのだ。なぜ、この単純な事実が、わからん! 二号よ、おまえはどこにいる?」
「京都市内のアパートであります」
「これが馬鹿の言い草だ。何度教えても飲み込みが悪い。二号よ、おまえはどこにいる?」
「京都府京都市左京区にあるアパートの205号室であります」
「これを工夫の結果だと思っておるんだ。鞭でしばくことを許可する」
 しばらく、二号のうめきごえが室内に響いた。
「二号よ、おまえはどこにいる?」
「郵便番号から言えばよいでしょうか」
 鞭が飛んだ。
「われわれは、愚かだ。愚かであることを知らないほどに、底抜けに愚かだ。おまえはどこにいる。二号よ、おまえはどこにいる?」
「わかりません」
「ようやく、一歩前進だ。これは小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ。二号よ、この言葉はどこと関わっている?」
「月面です」
「鞭でしばけ。みみずばれがよっぽど好きと見える。地球なんてものはない! 月なんてものはない! おまえたちのちっぽけな言語世界を周囲と共有しただけで、真実と思い込むな!」
 男の隣にいた人間が、無言でペットボトルを渡した。男はそれを飲んで唇を湿らせた。いまや二号の肉体は赤く腫れ上がっていた。男は口を開いた。
「さあ、排便用意をしなさい。私の便意は正確な時刻を告げる。53秒後に私は肛門を開く。それまでに便器を用意しておきなさい」
 しばらく、周囲に慌ただしい人の動きがあった。
「私は毎回、おまえたちの前で排便することに決めている。おまえたちはすぐに私を肉体ではない何かだと思いたがるからだ。安物のスピリチュアルは、糞を排除するがゆえに安いのだ」
 便器が用意されると、男はズボンをおろして排便した。いやなにおいが室内に立ちこめた。
「二号よ、おまえはあわれだ。悲しいほどに、あわれだ。しかし二号よ、おまえは特別にあわれではない。二号よ、おまえはただの標準的な人間だ。これっぽっちも知らない、宇宙のことも、地球のことも、日本のことも、京都のことも。二号よ、おまえはどこにいる?」
 禅問答はもう嫌だ、と後ろのほうで誰かが言った。
 禅問答ではない、ただの拷問だ、と別の誰かが答えた。
 窓の外では鈴虫が鳴いていた。
「あの音をよく聴いておけ、馬鹿たれどもめ! あれが真実なのだ。真実は鈴虫の鳴き声なのだから、それを電波にのせれば、ようやく人類が電波なんてものを発見した意味も生まれる。冬が来る、春が来る、夏が来る、秋が来る、来やしないのだ、そんなものは! おまえたちは、本当に、愚かだ。時間と場所! 時間と場所! もう一度言うぞ、時間と場所! こんなものは、たわごとだ! 二号よ、おまえはどこにいる?」
「京都市内のアパートであります」
 二号の肉体には生傷が絶えない。

死神

 マス目を埋める作業に退屈したら、死神のほっぺたに落書きしよう。漢字ドリルに文字を書くことは退屈だ。しかし死神のほほに書くと、とたんに楽しくなってくる。死神はじっとして、ぼくの右手の動きに耐えている。骨のくせに、ほっぺたがくすぐったいのだろうか?
 死神の持っていた巨大な鎌は、わが家の倉庫に隠されている。死神はそれを探しているが、ぼくの父親に毎晩むりやり酒を飲まされるため、探索は遅々として進まない。大鎌さえあれば人間どもの命を刈り取るなど容易いことだと、死神は豪語するのだが、逆にいえば、大鎌を持たない死神など、無力なしゃれこうべにすぎない。がいこつが布を羽織って死神でございとは、くだらないよ、まったく。
 最初のうち、ぼくの母親は死神を丁重にゲストとして扱っていた。しかし滞在が二週間をこえた今、お茶のひとつも出すことがない。母の声は来客時の艶を失い、どすのきいた低音が維持されている。ぼくは今日も学校の宿題に追われ、うんざりするたびに、死神のほほに落書きをする。「やめてくださいよ、おぼっちゃん」と死神は言うが、ぼくはやめるつもりがない。こんな家族のもとに落ちてこなければよかったと、死神は酒を飲むたび愚痴をこぼし、失礼な言いぐさだ馬鹿野郎と、父親に骨を叩かれている。ぼくの父親はにぎりこぶしみたいな顔をしているから、死神はその迫力に押されて、すぐに前言を撤回してしまうのだ。

上田啓太

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Twitter:@ueda_keita|別ブログ:真顔日記